2010年
2010年6月 母子草編集後記(師)
2010年6月
誰に教わるか?は大切。という話を童具館の和久先生はおしゃっていた。木村拓也が英語の先生だったら皆さんも英語を話せるようになっていたのではないか?と会場の保護者を笑わせていた。自分の人生を振り返ってみてどうだろう。確かに高校のときの生物の授業は楽しかった。年老いた先生だったがいつも食い入るように先生の話を聞いていたことを思い出した。とくに生物が好きだったということはない。
一方、最近ある人に紹介されて読んだ「日本辺境論」内田樹(新潮新書)には、「弟子はどんな師についても、そこから学びを起動させることができる。仮に師がまったく無内容で、無知で、不道徳な人物であっても、その人を「師」と思い定めて、衷心から仕えれば、自学自習のメカニズムは発動する。例として太公望の武略奥義の「張良」の話をあげていた。
確かに幸田露伴の「努力論」にも他力による自己革新というのがある。立派な人に仕えて真似をしているうちにいつの間にか仕えていた人も立派になっているという話だったと思う。
師は大切だと思うが、自学自習に本人が気づくこと(スイッチオン)が一番大切かな?と思います。皆さんはいかがお考えでしょうか?だからといって幼稚園の先生は誰でもいいという話にはならないと思いますが・・・。【園長】