2008年
https://nanokaichi.ed.jp/
2024-03-13T19:43:44+09:00
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2008-12-01T00:00:00+09:00
2008年12月 母子草12月号より(インド紀行)
https://nanokaichi.ed.jp/pages/8/detail=1/b_id=48/r_id=60#block48-60
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<div>2008年12月</div>
<div> </div>
<div style="text-align: center">インド紀行</div>
<div> </div>
<div> 過日お休みをいただき青年会議所の世界会議に出席するためインドへ行ってきました。インドには、5月まで在園していたP君と卒園児の小学四年生になるN君がいるので、せっかくの機会ということで、目的地に入る前にバンガロールに立ち寄らせていただきました。</div>
<div> </div>
<div> 約二日間という短い時間でしたが、久しぶりに両家族の皆さんにあえて有意義な時間を過ごすことができました。私のことや幼稚園のことを忘れずに覚えていただいていたことが何よりうれしかったです。二人ともいくつかの言葉以外の日本語は忘れてしまっていましたが、「えんちょうせんせい」や先生方とお友達の名前など覚えていてくれました。ときどき幼稚園のホームページを見ていてくれているということでした。</div>
<div> </div>
<div> インドは今人口がすごい勢いで増えていて、近い将来中国を抜いて世界一になると言われている国ですので、本当に人が多いということを感じました。また、貧富の差が激しく貧しい人々が多いということ、町のいたるところにゴミが捨ててあること、車はクラクションを鳴り響かせ走っていて渋滞もひどいこと、様々なことを見てそして感じ帰ってくることができました。海外へ行くとあらためて日本の素晴らしさ、美しさ、日本人の良さを感じます。</div>
<div> </div>
<div> N君のお父さんと会話の中で車のクラクションのことが話題になりました。私が「日本人には人に譲るという精神があるので、ここまで車のクラクションが鳴るということはない。日本には思いやりの心がある。」と話すと「インドも昔はそうでした。偉人伝やとても良い物語もたくさんあります。しかし、人が増えすぎてインフラ整備が間に合わず、現状のように変わってしまった。」と言葉が返ってきました。確かに日本も高度経済成長やバブル等によって失ったものもあると思いました。日本人の徳高き精神性をしっかりと子どもたちに育まなければとあらためて決意をした次第です。(園長)</div>
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2008-11-01T00:00:00+09:00
2008年11月 母子草11月号より(結婚式)
https://nanokaichi.ed.jp/pages/8/detail=1/b_id=48/r_id=59#block48-59
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<div>2008年11月</div>
<div><br />
過日、知人の結婚式に参加しました。私と同じ学年であるから年齢的には遅い方でしょうか。しかし、年齢などは関係なく結婚式はいいものだとつくづく思います。8月には、以前勤務いただいていたI先生の結婚式にもお招きをいただきました。結婚式が好きな理由は、けじめをつける日だからだと考えています。育てていただいた両親、結婚相手の親、お世話になった方々へのけじめの日なのだと思います。そのけじめをどのように表現し、おもてなしをし、言葉に表すのかが、披露宴の内容や御礼の言葉に表れているからだと思います。</div>
<div> </div>
<div>◆『善生経』では親の子に対する一般的な義務として(1)悪から遠ざける(2)善に入らしめる(3)技能を習学させる<strong>(4)適当な妻(似合いの)を迎える</strong>(5)適当な時期に相続をする。と五つ方法で子どもを愛するとしています。</div>
<div> </div>
<div>◆『近代ヨーロッパ社会では、まだ子女の配偶者を親が配慮することもあるが、次第に子女自身が見つけるという傾向が増大している。(中略)しかし子女の結婚を親がそれとなく気遣うという傾向は決してなくならない。原始仏教の時代から現代の機械文明の時代に至るまで親たちの心がまえは変わらないで、ただそれの具現のしかたが異なって来ているだけなのである。』(<東洋>の倫理 中村元著 春秋社)は納得。</div>
<div> </div>
<div>◆いづれにしても子のけじめの日に親として尊敬が得られるかどうかが問題なので、日々の親の役割をしっかりとつとめていかなければいけませんね。もう一つ結婚式の好きな理由を忘れていました。懐かしい人と再会ができ、楽しくお○がいただけることも、大きな理由ですね。</div>
<div style="text-align: right">(園長)</div>
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2008-10-01T00:00:00+09:00
2008年10月 母子草10月号より(誕生日の話II)
https://nanokaichi.ed.jp/pages/8/detail=1/b_id=48/r_id=58#block48-58
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<div>2008年10月</div>
<div><br />
ある年長の子の個人記録ノートに、私からの誕生カードが届き中に書いてあった「おうちのひとにありがとう」と感謝の言葉を送りましょうという旨の文面を読み、お父さんお母さんに「いつもありがとう」といってくれたそうです。メッセージを書いてよかったと思いました。ちなみに年少さんには違う文面になっています。また、多少の違いはありますのでご容赦ください。</div>
<div> </div>
<div> 昨年の11月号に誕生日の話を人に聞いた話として書いたことがありますが。その元と思われるものに出会いました。人の上に立つ者の心得『貞観政要』に学ぶ 谷沢永一・渡部昇一共著(致知出版社) 唐朝の第二代皇帝 太宗(たいそう 598~649)の言葉です。</div>
<div> </div>
<div> 「今日は私の誕生日である。世間では誕生日を喜び、楽しむべき日としている。しかし私の心では、かえって感傷の思いをするのである。自分は天下の君となり、四海の富をわがものとしているが、親の養育の恩に対してお側にいて孝養を尽くしたいと思っても今は亡く、永久にすることができない。昔、孔子の弟子の子路が親の死後、親のために米を背負って歩くことができなくなったことを恨んだのは、誠に理由のあることである。だから『詩経』には『悲しいことに、父母は私を生んで苦労した』と言っている。どうして本来は母が苦労した日であるのに、それを喜んで楽しむことができようか」</div>
<div> </div>
<div> 年に一度の誕生日、お祝いする以外にも子どもの教育にはとてもいい機会かもしれませんね。 〈園長〉</div>
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2008-09-01T00:00:00+09:00
2008年9月 母子草9月号より(日々を生きる)
https://nanokaichi.ed.jp/pages/8/detail=1/b_id=48/r_id=57#block48-57
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<div>2008年9月</div>
<div><br />
我が子ではない子どもを家庭で面倒をみている知人がいる。両親は子どもをおいてそれぞれ出ていってしまったそうだ。もうしばらく預かっているとのことだが、いま自分の籍に入れようと考えているという。今その子は小学一年生、我が娘(三女)と同級生。人に認めてもらいたくて何事にも一生懸命だそうである。字を書くことも、計算することも、とにかく自分を認めてもらいたくて頑張っているそうである。何故そこまで頑張るのかわかりますか?と尋ねられた。それは両親に捨てられた経験から、自分を認めてもらえればもう捨てられなくてすむと考えているようなのである。小学校一年生である、そのけな気な子どもの姿を想像しただけでも涙腺がゆるむ。</div>
<div> </div>
<div> その子が親について今後さまざまな思いを持つと思うが、この世に生を受けたことには感謝して欲しい。この子とその知人なら大丈夫だと思うが、「生きる」という言葉を当たり前のように使い、もしかしたら「生きる」という意志もしっかり持たずに日々時間を過ごしているのではないか?と反省をさせられる。</div>
<div> </div>
<div> 時間ほど人が無駄遣いをしているものはないそうだ。特に若いうちは多いようだが、実際には生涯を通して無駄にしがちだそうである。さてさて今日の予定は・・・。【園長】</div>
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2008-07-01T00:00:00+09:00
2008年7月 母子草7月号より(本気)
https://nanokaichi.ed.jp/pages/8/detail=1/b_id=48/r_id=56#block48-56
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<div>2008年7月</div>
<div> </div>
<div> 園長だよりで本の名前を紹介したロバートフルガムの「人生に必要な知恵はすべて幼稚園の砂場で学んだ」(河出文庫)は短いエッセイ集です。以下本文の抜粋です。「人間、どう生きるか、どのようにふるまい、どんな気持ちで日々を送ればいいか、本当に知っていなくてはならないことを、わたしは全部残らず幼稚園で教わった。人生の知恵は大学院という山のてっぺんにあるのではなく、日曜学校の砂場に埋まっていたのである。」</div>
<div> </div>
<div> その学んだ中に「誰かを傷つけたら、ごめんなさい、ということ。」という一文があります。幼稚園でも素直にごめんなさいが言えなかったり、言い訳をしたり、友達のせいにしたりという場面があります。もちろん本人の言い分もしっかり聞きますが、やはり素直に「ごめんね」が言えるといいと思います。ご家庭でもいろいろな場面があると思います。「ここは」というときにはしっかりと対応したいですね。</div>
<div> </div>
<div> 園でも先生が「本気」で子どもたちを叱っている場面があります。約束を守れなかったり、先生を馬鹿にするような発言やしぐさをした時などです。常に褒めて育てるが基本ですが、例外もあります。しかしこの本気が子どもたちに伝わるとその信頼関係も深まりますし、してはいけないことをしっかり身につけてくれると思います。</div>
<div> </div>
<div>坂村真民さんの詩「本気」です。過去に紹介したかもしれませんが・・・。 </div>
<div> </div>
<div> 本気になると 世界が変わってくる </div>
<div> </div>
<div> 自分が変わってくる 変わってこなかったら </div>
<div> </div>
<div> まだ本気になっていない証拠だ</div>
<div> </div>
<div> 本気な恋 本気な仕事 ああ 人間一度 </div>
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<div> こいつを つかまんことには</div>
<div> </div>
<div>本気な親、本気な先生、本気な園長 みんなで子どもたちのために頑張りましょう。</div>
<div>(園長)</div>
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2008-06-01T00:00:00+09:00
2008年6月 母子草6月号より(青春度?)
https://nanokaichi.ed.jp/pages/8/detail=1/b_id=48/r_id=55#block48-55
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<div>2008年6月</div>
<div><br />
相田一人(相田みつを美術館館長)と新井満(作家、作曲家、プロデユーサー)の対談記事(致知6月号)を読みました。新井氏は、「千の風になって」を訳し作曲した方です。その対談の中に一つのテーマ「青春」がありました。相田氏の父相田みつをさんは「一生感動 一生青春」という作品を旗印にして生き抜いたところがあったそうです。また、新井氏は芥川賞を受賞した際に、当時勤務していた電通の社長さんから「青春」の詩が印刷されたテレホンカードをいただいたそうです。「青春とは人生の或る時期をいうのではなく、心の様相をいうのである・・・」この詩は、サミュエル・ウルマンが書いた「YOUTH」の現代語訳だったそうです。</div>
<div> </div>
<div> 話は飛びますが、早速新井氏の著書「青春とは」自由訳(講談社)をネットで取寄せました。「千の風になって」の講演会後のサイン会でこの「青春」の詩に曲をつけてくれとたのまれたのがきっかけで文献を調べるうちに、サミュエル・ウルマンが残したオリジナルの詩と日本で有名になっているものとが違うことがわかり、自由訳として出版したそうです。もし興味があれば薄い本ですので読んでみてください。おすすめです。</div>
<div> </div>
<div> 対談の中で、青春とは「夢があること」「その実現のために情熱を燃やしていること」であり、決して年齢ではないのだ。自分がどの程度の青春の中にいるのか、その度合いを測ろうとするならば<strong>「夢×情熱=青春」</strong>という方程式が成り立つのではないかと語っていました。</div>
<div> </div>
<div> 4月号でも、小西行郎氏の「まず親自身が日々いきいきとした人生を送り、一人ひとりにできることを実践することが、子どものよい手本となるのではないでしょうか。」に触れましたが、青春と共通する部分があるように思います。</div>
<div> </div>
<div>さて、皆さんの青春度は?(園長)</div>
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2008-05-01T00:00:00+09:00
2008年5月 母子草5月号より(微力)
https://nanokaichi.ed.jp/pages/8/detail=1/b_id=48/r_id=54#block48-54
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<div>2008年5月</div>
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最近、ある習慣が一つ加わりました。それは、マイ箸を持ち歩くこと。以前から持ってはいたのですが忘れることも多く、活躍していませんでした。ところが、ある方の話を聞いてからは忘れず持ち歩くようにしています。</div>
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<div> ある話とは、「無力と微力は違う」ということです。たった一人マイ箸を使ったからと言って森林の伐採が防げるわけではない。一人が使ったって何も変わらない。割り箸は間伐材からできている。このように思ったり、発言したりする人がいますが、やはりそのようなことはないと思います。</div>
<div> </div>
<div> 一人のマイ箸は本当に微力でありますが無力ではありません。周りの人の意識を変えることができ、運動の広がりを期待できるからです。私の箸から様々な話が始まります。結局は、環境問題に話が進み周りの人が納得してくれます。このことの繰り返しで徐々に同じ意識を持った人が増えていけば、微力が徐々に強力へとなります。</div>
<div> </div>
<div> 今後さらに環境問題は重要性を増していきます。待ったなしの問題であります。子どもたちによりよい環境を残してあげるためにも、一つでも二つでも身の回りのできることから始めたら世の中は変わります。あなたの微力が世界を変える。訳し方は様々あるようですが、次の言葉のような意識が必要だと思います。(園長)</div>
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<div><strong>「地球は先祖から受け継いでいるのではない、子どもたちから借りたものだ。」アントワーヌ・ド・サン=テグジュペリ</strong></div>
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2008-04-01T00:00:00+09:00
2008年4月 母子草4月号より(親の願い)
https://nanokaichi.ed.jp/pages/8/detail=1/b_id=48/r_id=53#block48-53
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<div>2008年4月</div>
<div><br />
私事でありますが、長女が中学へ三女が小学校へ入学いたしました。節目に思うことは、将来自分のやりたいことをできる基礎的な能力を身につけてもらいたいと改めて思います。小学校の入学式で祝辞を述べさせていただきましたが、その内容は「家を建てる」お話をさせていただきました。家を建てる時に、まず基礎(土台)をしっかりつくる。柱や重い屋根がのっても大丈夫なようにと・・・。みんな将来大きな夢や高い目標をのせても大丈夫なしっかりとした土台を作るのが小学校だから頑張ってほしいと・・・。イメージとして頭に残っていてくれれば良いと思っています。</div>
<div> </div>
<div> 幼稚園教育要領には、「幼児の主体的な活動を促し・・・」と主体的に遊べるように環境を構成することが、幼稚園教育の基本とされています。自発的な遊びはいかに好奇心をもてる環境があるかがポイントだと思います。物、人的な環境の整備に今後も努力をしていきたいと思います。</div>
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<div> これは、家庭でも同じで親の願いだけで、環境を整え、乳幼児期から教材や○○教室に通わせることではないと思います。早期教育には、大きな伸びも期待できる半面、その弊害もあることを考えなければならないと思います。この点については、「幼児教育と脳」澤口俊之(文春新書)、「早期教育と脳」小西行郎(光文社新書)が参考になります。両書とも子どもたちどうしの豊かな社会的関係が必要であると指摘している点は、納得です。</div>
<div> </div>
<div> わたくし自身冒頭に述べたようにわが子への願いがあります。環境も整えてあげたいと思っています。しかし、上記の小西氏のあとがきに「まず親自身が日々いきいきとした人生を送り、一人ひとりにできることを実践することが、子どものよい手本となるのではないでしょうか。」の一文が最も心にしみました。</div>
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2008-03-01T00:00:00+09:00
2008年3月 母子草3月号より(手本)
https://nanokaichi.ed.jp/pages/8/detail=1/b_id=48/r_id=52#block48-52
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<div>2008年3月</div>
<div><br />
園長だよりで「習慣」のことに触れましたが、決して良いことだけが習慣ではありません。悪いことも習慣になりえます。毎日の生活は、子どもたちのお手本になっていると自信を持てますでしょうか?私なんぞは、疑問も残りますが、常に子どもの前ではどのように映るか?意識しているのは仕事柄でしょうか。</div>
<div> </div>
<div> 手本とは、無言で教え導く名教師だ。ことわざや格言も、確かにわれわれの進むべき道を示してはくれる。だが実際に人間を導くのは、ものをいわぬ無数の手本であり、生活をとりまく現実の模範なのだ。(中略)人は誰でも、多かれ少なかれ、耳より目を通して物事を学ぶ。現実に見たものは、それがどんなにささいなものであっても、単に読んだり聞いたりしたものよりははるかに印象が深い。特に幼少時代にはこの傾向が強く、「目は知識の専用の入り口だ」といっても過言ではない。子供は、見たことを何でも無意識に模倣する。昆虫の体が、常食にしている草の色に似るように、子供もいつの間にか周囲の人間と似かよってくる。家庭教育が重要だといわれるゆえんはそこにある。(サミュエル・スマイルズ著の自助論)</div>
<div> </div>
<div> あいさつはほんの一例でしかない。私自身完璧かと言われればまったくもって自信は無いが、わが子の心に一生刻まれるすばらしい親(手本)としての何かを残したいと思っています。</div>
<div> </div>
<div> 「子供のころ母さんから教えこまれた誠実さや道徳心という美徳を、いまでも決して忘れません。とくに、他人のために何かしてあげようとするとき、母さん譲りの美徳を感じずにはいられないのです」と慈善事業家のファウエル・バクストンは、立身出世を果たしてからも母親宛の手紙に書いたそうです。</div>
<div style="text-align: right">(園長)</div>
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2008-02-01T00:00:00+09:00
2008年2月 母子草2月号より(路傍の石)
https://nanokaichi.ed.jp/pages/8/detail=1/b_id=48/r_id=51#block48-51
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<div>2008年2月</div>
<div><br />
何かの本で引用されていた本をいつか読もうと付箋に書きとめ机に貼っておきました。本屋さんでたまたま見つけて購入し、ワインではないですが、いくらか書棚でねかせて(積ん読)から読んでみました。その本は「路傍の石」山本有三著。参考までに以下裏表紙の解説を記載します。</div>
<div> </div>
<div> 「極貧の家に生まれた愛川吾一は、貧しさゆえに幼くして奉公に出される。やがて母親の死を期に、ただ一人上京した彼は、苦労の末、見習いを経て文選工となってゆく。厳しい境遇におかれながらも純真さを失わず、経済的にも精神的にも自立した人間になろうと努力する吾一少年のひたむきな姿。」</div>
<div> </div>
<div> 中学へ進学したくてもできない吾一。わが娘も今春中学生。時代背景はまったく違いますが、親としても考えさせられる一冊でありました。一月に園長だよりに「使命」の話をしましたが、吾一がさまざまな人とのかかわりの中で、自分の「使命」を探っていく姿に感動。</div>
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<div> この本が引用されていた本は何の本だったか?読後、思い出せずにいました。この編集後記に何を書こうかと、頭を悩ませていくつかの本をめくっていると、なんと発見。その引用部分は、先生が吾一に語りかける一節「たったひとりしかない自分をたった一度しかない一生をほんとうに生かさなかったら、人間、うまれてきたかいがないじゃないか」</div>
<div> </div>
<div> 編集後期を無事に書き終えることができたこの本のタイトルは、「小さな人生論(3)」藤尾秀昭著。今一番読まれている人生論と帯が着いていました。私にとって今一番救いの一冊でしょうか。(園長)</div>
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2008-01-01T00:00:00+09:00
2008年1月 母子草1月号より(公につくす)
https://nanokaichi.ed.jp/pages/8/detail=1/b_id=48/r_id=50#block48-50
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<div>2008年1月</div>
<div> </div>
<div> 昨年を表す漢字に「偽」が選らばれた。何ともいやな時代になったものか?と嘆く声が聞こえてくるばかり。さてさてこの現状をどういたしましょうか?という改善策の話はあまり聞こえてこない。年末に読んだ「日本を教育した人々」齋藤孝 著(ちくま新書)に吉田松陰の次の言葉と解釈が載っていたので紹介します。</div>
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<div> 「国と休戚(きゅうせき)を同じうする者」なれば、凡そ今日に生まれ世(せい)禄(ろく)の沢(たく)に浴(よく)する者は、一身の憂(ゆう)楽(らく)を捨て、国家の休戚を以(もつ)て吾が休戚となすべきこと、論を待たず、苟(いや)しくもこの志なき者は人に非(あら)ざるなり。</div>
<div> </div>
<div> これは今の時代に言い換えると、世界の中で豊かな日本に生まれたという、それだけですでに幸せなことだといえる。ところが、その恩恵を存分に受けているにもかかわらず、その社会を維持して行こうとする意欲がないのは、人として果たして正しいことなのか、という意味だ。恩恵を受ける一方で、何かにぶら下がって、いわば誰かの足を引っ張るだけの人というのは、「人に非ず」と松蔭は言っているのだ。</div>
<div><br />
私が一番感じるのは「公のために尽くす」「人のためにつくす」ということが欠けているのだと思います。「自分だけよければ」という考えがはびこっているからだと思います。</div>
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<div> こうしたことを小さなうちからいかに教育できるか、幼稚園の生活も、もう一度振り返り、子どもたちに公のために尽くす志を育めるよう努力しなければと強く思いました。(園長)</div>